佐藤明子とサンのあかつきの村での生活は?
サンさんは2時間以上1人にできないほどの重度の精神障害があり、佐藤さんは付きっきりでお世話をしています。
なぜそこまでできるのでしょうか?
インタビューで佐藤明子さんはこう答えています。
理屈じゃないんです。私はそれまで人から受け取るのが当たり前で愛されて育ってきた。ぼんやりと生きてきた。証券会社で働き、バリバリのバブルの子としてスルスル生きてきた。サンさんと出会い、自分を超えて他者を愛することを引き出されたのだと思います。
引用:https://www.refugee.or.jp/fukuzatsu/shihotanaka02
サンさんは実際には色々な人の手を借りないと生きていくことができない。
生産性でいえばマイナスですよね。
お金もかかるし。でも、彼の苦しみを通して、本質的に人は何が大切かということを私は伝えてもらった。
じゃあ、それが「何」なのかということを言葉にしてしまうと、ありきたりになってしまうのですが…。人が生きるということは、生産性とか、モノ・カネだけの話ではない。サンさんを通じて、そういうことを受けた者の責任として、返していく。今もこの村が開かれて人を迎え入れるのは、それを具体的にするということだと思います。それが結果的に、サンさんたちが生きる場を広げていくことにもつながりますし。
最近、生産性について雑誌に寄稿し、問題となった政治家がいましたね。
そんなこと以上のレベルで、佐藤明子さんはサンと向き合って暮らしています。
最後に
あかつきの村には「難民」「障害者」「信者」「専門家」が暮らしています。
それぞれに生活があったでしょうが一緒に暮らすことにした職員もいます。
あかつきの村での仕事は、ただの仕事というものでは区切れないものがあると思いますが、そこに石川神父が大きく関わっています。
信者やカトリックという宗教があるから成り立っている部分もあるでしょう。
無宗教の私からしたらわからないレベルでしょうが、こうやって無償の愛で人を愛せることができる人を羨ましく思うこともあります。
なかなかできることではないですけどね。
とても難しい話でしたが、また自分の糧にしたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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コメント
こんなサイトをみつけました。
岡田武夫大司教説教
2014年11月29日 あかつきの村 待降節第一主日
ヨハネ・バプチスタ・ド・ラサール石川神父追悼ミサ・納骨式
第一朗読 イザヤ63・16b-17,19b、64・2b-7
第二朗読 一コリント1・3-9
福音朗読 マルコ13・33-37
待降節に入り、主日の朗読箇所はB年となりました。今日から福音朗読はマルコとなります。
今日の福音のキーワーズは「目を覚ましていなさい」という主イエスの言葉です。待降節は主の降誕を待ち望むことですが、同時にわたしたちが決定的な主の訪れを待ち望むときでもあります。主の訪れを待ち望むとは、主キリストの再臨を待ち望むという意味であり、またわたしたち自身の地上の最後の時=死のときを待ち望む、ということでもあります。
わたしたちは誰しも自分の生涯の最後のときを迎えます。そのときに向かってわたしたちは歩んでいます。問題はそのときに向かってどう歩むのか、ということです。
わたしは、まずそれは「信仰と希望のうちに生きる」ということだと思います。石川神父さんは信仰者として、また司祭として、信仰と希望のうちに生涯を歩みました。神父さんが司祭に叙階されたときは1969年、ちょうど第二ヴァチカン公会議による刷新が行われていたときでした。刷新は同時に危機と試練のときでした。教会は激動のときを迎え何人かの司祭が司祭職を離れました。各自の信仰自体が問われたときです。
石川神父さんは、聖霊は教会の中だけでなく外でも働いている、と信じていたと思います。日本の社会で福音の教えに基づいた共同体を建設しようとしました。それはある意味で「地上の理想郷」ユートピアの建設の試みでありました。それが「あかつきの村」であったと思います。「あかつきの村」は、主イエスの教えに従って、社会の中の貧しい人々、病気の人、避難民、寄る辺のない孤独な人たちのための避難所でありました。いわば現代の救護所(hospitium)*であったと思います。それは、王であるキリストの主日の福音の実行でした。
石川神父さんが実行した生き方はキリストの教えの実行です。
「飢えている人に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねる」(マタイ25・35-36)という愛の行いでありました。ヴェトナム難民を受けいれ、精神の問題に悩む人の安らぎの場所を提供し、競争社会から脱落して人に生きる場所を用意しました。
教皇フランシスコは使徒的勧告『福音の喜び』で現代の消費主義を弾劾しています。大量の物資が無駄に消費されゴミになっています。他方、何億もの人が飢えに苦しんでいます。この社会の矛盾は一向おさまらない状況にあります。石川神父さんは「あかつきの村」を始めて、この現代消費社会の悪の構造へのささやかな挑戦を行いました。それは具体的にはリサイクルの仕事でした。現代人が大量消費社会の中で物資をおしげもなく廃棄しているなか、物に支配されない生き方、物を大切にする生き方を人々に示したと思います。それはキリストの清貧の精神の実行でした。
日本カトリック司教協議会は東日本大震災に際して、「今すぐに原発の廃止を」というメッセージを発表して訴えて言いました。
「わたしたちキリスト者には、何よりも神から求められる生き方、つまり『単純質素な生活、祈りの精神、すべての人々に対する愛、とくに小さく貧しい人々への愛、従順、謙遜、離脱、自己犠牲』(2)などによって、福音の真正なあかしを立てる務めがあります。わたしたちは、たとえば節電に努める場合も、この福音的精神に基づく単純質素な生活様式を選び直すべきです。(3)またその精神を基にした科学技術の発展、進歩を望みます。それが原発のない安心で安全な生活につながるでしょう。」(2011年11月8日、カトリック中央協議会ホームページ参照)
メッセージ中には福者教皇パウロ6世の使徒的勧告『福音宣教』が引用されています。
「福音の精神に基づいた単純質素な生活」こそ私たちの目指すべきキリスト者の生活であり、石川神父さんは、その生き方を先取りしたと思います。
*hospitiumはキリストの愛を実行する施設で教会に起源を持つ。後に、病院hosptal、ホテルhotelがそこから分化し独立した、と考えられる。
ありがとうございます。自分もよく考えて生活しようと思います。